繭玉抄
林田麻裕
ゆっくり早くゆっくり早く一日が健康的に過ぎていきます
虫のようにダンスをしてよ君のことさらに二センチ好きになるかも
君ってさ時々カライこと言うね私がちょっと甘すぎるかな
おかき二袋を持って父さんがニヤリと笑うああ日曜日
トイレットペーパーの名はさわやかさんさわやかな人ばかりと出会う
繋がる五七五㉒
おーたえつこ 消しゴム版画 辻 水音
岩波の漱石全集に残っている夏目漱石の連句の断片の、相手は松根東洋城ばかり。それは、
東洋城が、連句というものへの興味を失わなかったからです。明治時代、欧米文学の影響で
作品の個人性が重んじられるようになり、座の文学である俳句は一段レベルの低い芸術だ
とみなされつつありました。その行きついた果てが第二次世界大戦直後の桑原武夫の第二
芸術論なのでしょうが、それはともかく、当然、連句も廃れようとしていました。そこをな
んとか、連句の伝統を残し続けようとしたのが東洋城です。連句が生き残れたのは、ひとつ
には、東洋城のおかげともいえるようです。
この人は、本名、松根豊次郎、漱石門下では、ダントツに身分が高い。宇和島藩城代家老
松根家の子息、宇和島藩主伊達宗城の孫で、宮内省勤め。
漱石門下では、態度が偉そうとか、他のメンバーと金銭感覚が違いすぎるとかで、どうし
ても浮いてしまう存在だったようです。特に、童話作家の鈴木三重吉は東洋城のことを嫌っ
ていたとか。いつか一発殴ってやるとまわりに宣言していたそうです。
でも、漱石が子規亡き後俳句を続けられたのも、これまた東洋城の無類の俳句好きの、忖
度の無い押しかけ句会のおかげもあったみたいです。漱石はそういう東洋城のゆとりのあ
る雰囲気や、物おじの無さ、遠慮の無さを可愛がったようですが、友人たちには、なかなか
に受け入れがたかったのかも。
ふくろの中は割り瓢なり 東洋城
親類の娘を花に誘ひて 漱石
夕月の下駄を草履にはきたがへ 東洋城
恋の奴に罪な邪魔する 漱石
このふたりは、恋句、それに類する、そこはかとなく色っぽい句も上手ですね。
酔覚ましの水を呼びたる枕元 漱石
夜出る蜘蛛を切って笑はん 東洋城
夜に蜘蛛を殺したらいけないという迷信?も平気な東洋城。
唐黍の見渡す限り鳴る暮に 漱石
十里続きてけふも退く陣 東洋城
なんとなく、時代小説的。
次の一連は、漱石が胃潰瘍で入院中かもしれません。
「病院」
蝙蝠の宵々毎や薄き粥 漱石
団扇絵飽きし名所の月 東洋城
註文の鮎釣る男瀬に見えて 東洋城
庄屋の門にゴム輪一台 漱石
(ゴム輪は人力車のこと。ゴムの車輪が普及してきていた)
相伝の金創膏も練らぬよし 漱石
遊女屋続き外郎売る家 東洋城
(外郎、ういろう、痰切りや口臭消しのための薬)
この連句は未完成とか。途中って感じします。
そうやって、その場その場で楽しんでいたのかな。
季湖ワールド カマキリフリーク
写真 季湖
毎年5月の声を聞くと、カマキリの孵化に期待が高まり、今日か明日かと毎日そわそわ。
昨秋、庭の樹木や鉢植えで見つけた卵鞘は4個でした。
日に何度も様子を見に行くこと3週間余り。
遂に待ちに待ったその日が来ました。
5月22日1個目、一日置いて24日2個目。
でき、どのようにして卵鞘から出てくるのかつぶさにわかり、
生まれた直後はわらわらうじゃうじゃいた子かまきりも午後にはざ
網戸によじ登ったり、
威嚇してくるたくましい子。
今年もまた私のカマキリフリークが始まりました。
よろしくお付き合いください(๑>ᴗ<๑)
さて、残る2個はいつかな?