繋がる五七五⑥
おーたえつこ 消しゴム版画 辻 水音
新古今和歌集の編纂を命じた後鳥羽院や、命じられた藤原定家も連歌を楽しみました。
古くは一対一だった付け句も、このころには何人かの仲間が集まって、百句またはそれ以
上繋げる連歌の会が開かれるようになっていました。けれども長く繋いだものは記録とし
て残されなかったのです。もったいないけど、そのころの歌人たちにとっては、連歌は所詮
その場限りのお遊びでした。
それでもそのうちに、その中で面白いと記録され残ったものを集める変わり者も出てく
るわけです。菟玖波集というのがそれです。歴史や国語で聞いたことありませんか?
夕顔の垣ほの露にやすらひて
花にこととふ黄昏のそら 後鳥羽院
菟玖波集にある後鳥羽院御製のうちの一組です。
蒸し暑い日、垣根に咲く夕顔の花に露の置く涼しげなようすをしばらくゆったり味わった。
そういう五七五に、源氏物語の、夕顔の花にことよせて女性を口説く光源氏を思い出して、
七七をつけました。
菟玖波集は、室町時代の初期に二条良基によって、はじめて編纂された連歌集です。
この時代は、前の句に上手く付けて、それを付けた人が誰かということが大事だったようで、
前の句を作った人の名前は書いてない。七七を付けたのが後鳥羽院。
うつろふ色をかへて待ちみむ(色あせていく花や恋。それでも待っていたいのだ。)
今来むといひし有明の月草の
これは、五七五のほうが後鳥羽院。
古今集の「今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」という、百人一首
にもある素性法師の歌の本歌取りになっています。
筑波根や瀧つ岩ねを行く水に
せかれぬこひよいかにしのばむ 定家
激しく流れる滝を詠んだ句に、堰き止めようとしても滝のように止まらない恋心と付けた。
七七を付けたのが定家。
これも百人一首にある陽成天皇の「つくばねの峰より落つるみなの川こひぞつもりて淵
となりぬる」や崇徳院の「瀬を早み岩にせかるる瀧川のわれてもすゑに会はんとぞ思ふ」
なんかを思わせます。さすが、この人たちの連歌は、とっても和歌的。
前の句を作った人がわからないなんて、かわいそうじゃないか?
天皇みたいな人が、前の句を作ってこれにつけろといった場合は、前の句は天皇が作った
からわかる。でも、その場合も上手に付けた人の手柄。褒められるのは付けた人です。
前の句を作ったのが小野小町だろうと、妖怪だろうと、メインに記録されるべきは、うま
く付けられた付け句のほう。だからこそ、みんな、付けることに熱心になるのですね。どん
どん付けて繋げちゃう。うまく繋げて仲間に褒められたいもの。
定家のある日の日記に、嫌いな人が連歌の会に入れてほしいと言ってきたから、あの会は
最近やめちゃいましたよって嘘をついたとある。連歌は気の合った仲間としたい!定家、な
かなか人間味あります。
現代この日記「明月記」は、和歌や連歌の記録だけでなく、平家が滅びて源氏と北条の世
の中になったことや承久の乱のことなど鎌倉時代の貴重な歴史資料になっています。
繭玉抄
芸術が大好きなんだ芸術と言いながら生まれてきたのかも
もし君を音にするならどんな音フラットかシャープはつくだろう
たっぷりと目蓋を閉じてクラシック優しい気持ちで今日が終わるわ
腰までのロングヘアーをゆらゆらと揺らしバイオリニスト汗かく
美しい建物が好き美しい食べ物が好き財布が軽い
林田麻裕
季 湖 ワールド 季湖さんの日常 写真 季湖
ご近所さんから絹莢をたくさんいただいたので、胡麻和えにでもしようと思い、母と一緒にスジ取りをすることにした。しかし、予想していたことではあったが、母はもう豆のスジ取りがわからなくなっていた。
「こうして、こうして・・・」として見せても「ふん、ふん」
しようがないよね、しばらくしていなかったものね。
きぬさやの筋取る母の目のおさな
と私が詠んだのは、二年ほど前のことだっただろうか。
母は、ジャンケンはもうできないけれど、にらめっこならできる。絵を描くことはできないけれど、ぬり絵の美しさ正確さと言ったら神の域だ。(ただし、一色使いね)
あれができなくなった、これができなくなったと嘆くより、
できることをさがすって、
さて、母の破顔大笑を見たさに、
空が青ければ青いほど、明るければ明るいほど、寂しくなることもありますね。
以前は、ちょっとした事で頻繁に呼ばれ、それが苦痛でストレスでしたが、もう名前を呼ばなくなりました。
下の写真は、季湖さんの夕飯かな?
山椒の芽の香がしてくるな。